「怠惰からは何物も生まれない。努力が大切だ」このように教員時代、生徒に言ってきました。
学校の勉強においては、努力すればするだけ知識が身につき、成績は向上します。効率のよい勉強法とそうではない勉強法があるにしても、努力なしで成績がアップすることは、まずありません。
「社会に出ると、努力よりも処世術がものを言ったりすることもある。だが学校の勉強に関しては、努力が君たちを裏切ることは決してない。」そんなことを生徒に語ったこともありました。
たしかに日常の生活にあって努力は大切です。努力家は一般的に敬われます。
ですが唱題修行は、努力を続けている状態から努力を超える状態に跳躍できないと行き詰まってしまいます。
わたしは修行の師、斉藤大法上人から、全身全霊、命がけで唱題(南無妙法蓮華経を唱える修行)をするように指導されました。
大法師の指導に従って、一生懸命に唱題をしているうちに、わたしは、あることに気づきました。それは「努力すれば、それで済むというものではないようだ。一生懸命とか全身全霊とかいうのは、自己の努力を超えるためにするものなのではないか」ということです。
わたしたちが競争社会にあって努力をするのは、ほとんどの場合、他者よりも秀でるためといってよいでしょう。自己は、いつも他者と自己を比較し、自分の存在意義、価値をはかっています。
教員時代、学校の廊下に定期考査の上位者の名前が張り出されると、生徒たちは「アイツは前回トップだったけど、今回は三位に落っこちたな」とか「オレ、前回は十位だったけど、今回は七位。やったぜ!」などと言い合っていました。
自己は、他者からの評価を気にせずにはいられません。これを気にしすぎる人のことを自己顕示欲求の強い人と言います。能力やステータスを他者にひけらかしたいという欲求が自己顕示欲求です。
これとはちょっと異なった自己承認欲求というのもあります。これは自分自身で自分を認めたいという欲求です。
学年でトップの成績を常にキープしている生徒が「校内で称賛されても無意味です。それを喜ぶのは井の中の蛙。ボクの努力はまだまだ不十分です」とわたしに語ったことがありましたが、彼の自己承認欲求はいつも満たされていなかったようです。
大法師の指導の下で唱題修行が進んでくると、ぶち当たるのがこの自己顕示欲求や自己承認欲求を満たそうとする努力の壁です。
大法師の唱題は、自己のはからいを超えて、腹の底から涌き上がってくる唱題ですが、この唱題をするのには、努力だけではどうにもならないのです。
自己のはからいを超えている唱題ですから、自己がはからって努力している状態に留まっていては到達できないのは、当たり前と言えば当たり前なのですが、努力することを超えるのはなかなか難しいものです。
特に真面目な人ほど、子ども時代に植え付けられた「努力しなければ人より秀でることはできない」という信仰から解放されるのは困難なようです。
唱題に努力は必要ないというわけではありません。凧(たこ)揚げる時、まず凧糸を持って全力で走る努力をします。すると凧は気流にのって上がっていき、高く上がってからは、疾走する努力は不要になります。
大法師の自ずと涌出してくる唱題もこれと同様です。
全身全霊、命がけでと唱えるのは、自己の努力を超えるためですが、自己が自分そのもの、自分のすべてと思っている人にとっては、自己の努力を超えた世界は認めがたく、そこに行くのは怖くてできないようです。
怖くてできないというのは、いつまでも凧を地上で引きずり続けているということなのですが。
こんな道歌があります。
生きながら死人となりてなり果てて思いのままに為す業(わざ)ぞよき
「生きながら死人となる」というのは、自己顕示欲求、自己承認欲求を満たそうとする努力を放(ほか)すということ。「思いのままに為す業」というのは、はからわずとも深いところから涌出してくる南無妙法蓮華経のことと言うことができます。
「思いのまま」というのは「自己の思いのまま」ではありません。一般に言われる自己の奥にある「真実の自己、仏性(仏としての本質)の思いのまま」ということです。
日常生活の次元では、自己顕示や自己承認の欲求は否定されるべきものではないでしょう(行き過ぎには問題がありますが)。「ライバルに負けて悔しいから頑張って勉強しよう」と思って成績が伸びたということもあります。
ですが、唱題の次元にあっては、自己顕示や自己承認を満たす努力を超えて、仏の世界に身を投じないと、唱題は深まっていきません。
少々乱暴な言い方かもしれませんが、南無妙法蓮華経を唱えるにあたっては「人から評価されたり貶(けなさ)されたりするわたし」、「自己が理想とするわたし」、そんなわたしはどうでもいいのです。知ったことではないのです。それにしがみついていては、絶対に先に進みません。
全身全霊で唱題をするにあたっては、まずこのことを理解して唱えることが大切だと痛感しています。そのためには自己顕示も自己承認もまったく関係なく「あなたは尊い」という『法華経』のメッセージについて得心することが必要でしょう。
『法華経』についての理解が深まるにつれて、唱題も深まっていくようです。
もっとも食事の際、間違って茶碗を落として割ってしまったり、白いワイシャツにケチャップをこぼしてしまったりして、妻に睨まれたときに「わたしは尊い」といったら大変なことになりますが。
しかし、不器用なわたしも怒りっぽい妻も「尊い」というのは真実です。
余計なことを記してしまいました。
自己を顕示したり承認したいという欲求を満たす努力をしている自分を超えること。そのために自己と他者の仏性に絶対的な信を置くこと。この二つが唱題を深めるために不可欠であるというのが、この記事でわたしがお伝えしたいことです。