体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

語ることのない対話

カルト宗教とそうではない宗教を分かつもの。それは対話だと思っています。その宗教の外側の人との対話がないのがカルト宗教であると感じています。

わたしは、自らの修行体験から、死後の個性の存続、すなわち死後も人は生きているということを認識していますが、このことを伝道師のごとく人々に伝え、反論する人にはひたすら説得をするといったことをしようとは思っていません。

頭ごなしに「死後も人は生きているのです」と言って、このことを信じさせようとしたなら、わたしはカルト宗教の指導者になってしまうと思っています。

では、理性的な対話によってこのことを伝えたいと思ってるのかというと、そうとも言い切れません。

若いころ、禅定(瞑想)の集いに参加して、「今日は深く入定できたたな」と思った時のことです。隣で坐していた女性から「小島さんの横に坐ったら、深い禅定に入れたわ」と言われたことがあります。

そのとき、「言葉を超えた、いのちの響き合いといったものがあるのだな」と感じました。その場では、言語を介さないコミュニケーションが自ずと行われていた気がします。

これから、僧侶として死を間近に控えた方とお会いする機会があるかもしれません。そのとき、わたしは「死後は決して無となるわけではありません。安心してください」と積極的にお話しようとは思っていません。

ただ、その方のお話を傾聴しようと思っています。そのお話の中で「死後はどうなるのでしょう」と問われたら、わたしの修行体験をお話するかもしれませんが。

大切なのは、「いのちは消失することなく、人は肉体の死後も永遠に旅を続けていく」という揺るぎのない思いを抱いているわたしが、平安な思いで、死と直面している方の横に座っていることではないかと思っています。

わたしの宗教的な体験。それは言葉を用いることのない対話の中で、はじめて真にお伝えできるのではないかと感じています。