悲しみの力
写真は、我が法華道場に掛けられてある、梅谷彩雲先生の書「常懐悲感 心遂醒悟」です。
「法華経・如来寿量品第十六」の中の言葉で、「常に悲感を懐いて 心遂に醒悟す」と訓読します。
「あなたの懐(いだ)いている、その悲しみによって、あなたは真実に至る」。そのような意味です。
わたしは中年期に父と義父を亡くし、還暦を過ぎてから母と義母を亡くしました。親の死は悲しいものです。ですが、親の前に死ぬことなく、しっかりと親の供養ができたことは、ありがたいことであったとも感じています。悲しみを引きずるということはありませんでした。ですが引きずってきた悲しみもあるようです。
わたしは三歳の時、虚弱であった一歳になるかならないかの弟を亡くしました。幼いながらも兄として可愛がっていた弟でした。当時は死というものがよく分かっていませんでしたが、無意識のレベルでずっと弟を亡くした悲しみを懐き続けていた気がします。
失った人を生き返らせることはできません。死に対して人は無力です。無力であるのは悲しいことです。
この無力であることの悲しみが人を成長させる力になることを、わたしは感じています。
わたしは非常にバランスを欠いた人間です。得意な分野があるいっぽうで、不得意な分野もたくさんあります。歌うことは好きで音痴ではありませんが、運動音痴で特に球技は苦手。自慢ではありませんが、野球をしてバットに球が当たったことは、ほとんどありません。文系の勉強はできましたが理系はまったくダメ。高校時代、物理や化学で赤点を取り、進級が危ぶまれたこともあります。
高校時代は体育会系の弓道部に所属していましたが、それは、弓道が禅と深く結びついていて、走ったり跳んだり格闘したりすることのない静かなスポーツであったからでした。
幸い、体育の時間の野球やサッカーで友達の足を引っ張っても、赤点を取っても、バカにされたりイジメに遇ったりすることはありませんでしたが、それは、級友が誰も知らない難解な言葉を使うことがあったりして、なんだか理解しがたい、近寄りがたいところがあるヤツだと思われていたからだと思います。般若心経は中学二年の時に暗誦していました。端的に言えば変人であったということでしょう。
自我の強かったわたしが、もし何でもこなすことのできる優秀な中学生や高校生であったら、平気で人を見下す傲慢なヤツになっていたであろうと思います。
人が難なくこなすことができないというのは、まことに悲しいものです。この悲しみがわたしを謙虚にしたようです。悲しみの中で、自我は万能ではないということも知りました。
今は僧侶として唱題をし、ご縁のある方たちを導かせていただいていますが、なかなか唱題が深まっていかない方がいます。それは自我を強化しよう、磨こうといった思いで唱題をしているからであるように思われます。
悲しみを懐くことによって至ることができる真実とは、「自我を超えたその奥に仏性という、いのちの輝きがある」という真実です。
自我を誇っていたのでは、この真実に到達できません。自我が傷ついて、悲しみを味わうことによって、わたしは、自我を超えたいのちの真実に近づくことができたようです。