体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

桜を見てきました

今日は彼岸明けですが、実家の墓参りを妻とし、その後、皇居のお堀端を散策しながら桜を見てきました。

2枚の写真は、今日の千鳥ヶ淵の桜です。

若いころは桜が咲くのが待ち遠しいと思うことなど、まったくありませんでした。それが40歳を過ぎたころから、三月になると「桜はいつ咲くのだろう」と思うようになりました。忙しくて昼間、花見に出かけるゆとりがない年は、勤務を終えた後、家の近くの県立公園の夜桜をしばらく眺めてから帰宅したこともあります。

「歳を取ると自然が恋しくなるものなのかなあ」と思ってきました。それが、ここ数年、桜を待ち焦がれる気持ちが失せてしまいました。

このことを妻に告げ、「最近は、待ち遠しく思うのは桜じゃなくてお浄土だなあ」と言ったら「バカなこと言うんじゃないの」と叱られました。

「お浄土が待ち遠しい」というのは、ちょっと妻をからかって言った冗談です。ですが、数年前から、桜の開花より自分の死後のことが気にかかるようになったのは事実です。わたしがお浄土へ往けるのかどうかは分かりませんが、僧侶として供養をさせていただいてきて、死後も「わたしという個性」が存続しているということを、紛れもない事実であると実感しています。

今、60代半ばのわたしには、残されている現世の時間は、そう長くはありません。この時間の中で、何を為していくべきなのか。そのようなことを考えています。あの世の帰ってから、悔いを残さない生き方をしていきたいと思っています。

とはいっても、目標を設定して、それを達成する生き方をしたいと思っているわけではありません。

書きたいと思っているものがありますし、お会いしたいと思っている尊敬する人もいます。ですが何よりも、今、ここにあって唱題を深める生き方をしていきたいと思っています。仏を自己の外側に求めるのではなく、内側に求めるといったらよいのでしょうか。

最近は、桜だけではなく、外側の世界の何かを希求する思いが少なくなってきました。南無妙法蓮華経を唱える唱題行によって、心中にある仏のいのちを涌出(ゆじゅつ)させることが、生きることの喜びの中心になっています。

しかし、外側の生活をなおざりにするわけにはいきません。

我が家の玄関を内から開けると、玄関マットの上にヤモリのご遺体が置かれていることがよくあります。どうやら隣家のネコちゃんが獲物をプレゼントしてくれているようです。

妻はヤモリが大の苦手で、これを見るたびに叫び声を上げています。わたしは妻が気づく前に、合掌してお題目を一唱してからご遺体を草叢のなかに安置しています。

これはわたしの日常のつとめです。道端でねこちゃんに会ったときに「プレゼントは不要だよ」と言って頭を撫でてやるのも、朝、ゴミ箱を所定の場所に出すのも、つとめのひとつです(今朝はゴミ箱のフタの上に、小さな生きたヤモリ君がいました)。

ささやかな日々のつとめを大切にしながら、但行礼拝(たんぎょうらいはい=あらゆるいのちを敬って、ただひたすら合掌すること)して、自己の内なる仏のいのちを涌出させていきたいと思っています。そして、臨終直前まで、僧侶として供養をさせていただきたいと願っています。