体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

決めつけない力

「霊が視えるんです」などと言うと、ほとんどの場合「 バカなことを言うもんじゃないよ」とたしなめられるか「どこか、おかしいんじゃないの」と心配されるかのどちらかでしょう。「危ないヤツだ」と遠ざけられることもあるかもしれません。

多くの人は「霊など存在するはずがない」と決めつけていますが、この決めつけによって辛い思いをしている人もいます。

教員時代、心身に異常をきたしているわけはなく、虚言癖があるわけでもない誠実な生徒や教員(校長もいました)から「実は霊が視えるんです」と打ち明けられたことがあります。

わたしが見えない仏の世界と向き合っている人間であったので、打ち明けやすかったのかもしれません。

死後の個性の存在の可能性に言及している知識人も増えてきましたが、霊が視えたり霊を感じたりする人は、マイノリティーでしょう。

僧侶の中にも「霊など存在しない」と言い切る人がいます。ですがこう決めつけることに、わたしは危うさを感じます。

いっぽう霊能者と呼ばれる人は、当然のごとく霊的世界を語り、その言葉を信じ切っている、霊能者の信奉者もいます。ですが、その言葉を絶対だと決めつけて大丈夫なのでしょうか。そこにも危うさを感じます。

私自身は、唱題修行を深めていくなかで、霊的な存在を感受するようになってきましたが、自己の体験を語っても「霊的世界は在るのです」と周囲の人に自己の思いを押し付けることはしません。

現代の科学では未だ解明できていない霊の世界については、頭ごなしに否定することも信じることもせず、体験し、思索して判断していくことが必要だと感じています。「決めつけない」というのは、宙ぶらりんで、けっこうしんどいことです。ですがこのしんどさに耐えていく力はとても大切であると思っています。

大阪大学大学院人間科学研究科教授で精神科医の老松克博氏の『法力とは何かー「今空海」という衝撃ー』(法蔵館刊行)という書物を最近読みました。「法力などあるはずがない」と考える人が圧倒的多数であるアカデミズムの世界にあって、老松氏は「あるはずがない」という決めつけを排して、一人の阿闍梨あじゃり)の法力と対峙しています。ずっしりとした読みごたえのある本でした。

霊的世界の事象について、簡単に○○であると決めつけてしまうのは、或る意味で楽なことかもしれませんが、そうすると道を誤ることになりかねません。わたしは修行を通して霊的世界を感受してきましたが、その世界の一端にしか触れ得ていないと感じています。

決めつけない謙虚さをもって仏道を歩んで行きたいと思っています。