体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

自我と向き合う修行

最近、社会的に発言力のある方が、拙文を読んで、直接にわたしに向かってはありませんが「小島は、ありもしない事象をあると思い込んでいる」と決めつけて、わたしを批判していました。

批判された事象は、明確なエビデンスがある事象ですので、決めつけた方の見識が疑われるのではないかと、その方が少々気の毒になっています。実際、複数の方から「あの批判の発言は、おかしいですよね」という言葉が寄せられました。

わたしを批判した方は、いつも「正しい私。間違っているあなた」、「正しいわたし。間違っている社会」といったスタンスで生きているようです。

これは一つの自我の在りようであるといってよいでしょう。自他が離別したものであるという認識の上で、自己と他者を比較し、わが身を守ろうとするのが自我です。

「私という個」を維持するのに自我は必要で、自我は決して悪者ではありません、ですが自我が傷ついたり病んだりしている人はたくさんいます。

自我の在りようは、人によって実に様々です。

常に自分を劣ったものであると感じている自我もあれば、自分は選ばしもの、優れたものであると思い込んでいる自我もあります。また他者からの承認を求めずにはいられない自我もあります。

などと他人事のように書いている私にも病んだ自我があります。若いころの私の自我は、批判されると、それが理不尽だと感じた場合は怒りを覚え、批判者に対抗せずにはいられませんでした。

最近は唱題修行の賜物で、自我はあまり荒ぶることはなくなりました(まだまだ修行は足りませんが)。

昨日、「ちゃんと風呂を洗っておいたぞ」と妻に言ったら「そんなの当たり前のことでしょ。ホントあなたは自己承認欲求が強いんだから」と言われました。なかなか妻の自我は手ごわいのですが、昨日は「もう少し優しい言い方があるだろう」などと反発はしませんでした

道理に合わないことを言われたとき、人の自我とどう向き合うのか。

穏やかに受け止める、キッパリと「それは違う」と言う、無視する・・・など、さまざまな向き合い方があります。

自分の自我の壁を超えるのも修行ですが、今のわたしは、出会った人たちの多様な自我とどう向き合うかが重要な修行であると感じています。

冒頭に紹介した、わたしを批判した方に対しては、何も反論しないでおくつもりです。たとえ理に適ったことをわたしが言ったとしても、対話にはならず、すぐに否定されるだろうと思うからです。。

法華経に登場する常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)は、罵られても石を投げつけられても、出会ったすべての人に対して、その人の仏性(仏に成る可能性)を敬い、合掌しました。

他者の自我から発せられた言葉に対して、優しく包み込むことも、毅然として対応することも、スルーすることあるでしょうが、いずれの場合にも、根底に常不軽菩薩の心を持って臨みたいものだと思います。

常不軽菩薩の精神の高みに至るのに道は遥かですが、もし明日また妻と口論しても、妻への合掌の心は忘れずにいたいと思っています。