体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ⑳ あなたを敬います

教職を辞した後も、中学生や高校生の勉強を一対一でみている。面倒をみているのは、教員時代の教え子の子どもたちだ。勉強の始めと終わりには、相互に合掌をして礼をするのを習慣としている(勤務していた公立高校ではできなかったことだ。特定の宗教を押し付けていると誤解されてしまうからね)。

勉強の合間、中学生の生徒がこんなことを言った

「いつも先生はボクに合掌をして礼をしてくれるけど、なんかちょっとヘンな感じがします。ボクは生徒。教えてもらう側ですよ。そのボクに合掌をして、深く頭を下げてくれる・・・。ボクがそうするのは不自然だとは思いませんけど」

わたしは、こう答えた。

「お地蔵さまや観音さまには合掌している尊像がある。この尊像の前に君が立つと、お地蔵様や観音さまが、君に合掌をしていることになる。お地蔵さまや観音様は、なぜ君に合掌をするのか。それは、仏さまは君の中にある御仏のいのちに合掌しているのだよ。だれもが内に尊い御仏のいのちを持っている。そのいのちを敬って合掌しているのだよ。

わたしも仏さまに倣(なら)って、君に合掌しているのだ

実は、君のお父さんは高校時代、先生たちを困らせることもある生徒だった。決して模範生ではなかったな。だが、わたしは、君のお父さんと向き合うとき、心の中でいつも君のお父さんに合掌していた」

十代の若者と向き合って、心の中で、敬いの気持ちをもって南無妙法蓮華経を唱えていると、向き合う若者の尊い御仏のいのちが表面に顕われてくる。わたしはこのことを教員として実感してきた(大人の場合は、簡単に顕われてくることは少なかったけれどね)。

法華経の「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつぽん)第二十」に常不軽菩薩という仏道修行者が登場する。彼は出会う人ごとに礼拝(らいはい)して、こう言った(ちなみに「品」というのは本の「章」のこと。法華経の第二十章ということだ)。

「私はあなた方を深く尊敬します。決して軽くみません。なぜかと言えば、あなた方は皆修行をして仏となる方たちだからです」

こう言うと人々から迫害を受けたのだけれど、彼は迫害されるとその場から逃げ、離れた場所から礼拝して同じ言葉を繰り返したんだ。

日蓮聖人は、つぎのように言われている。

「お釈迦さまの御説法全体の肝心(最も重要な部分)は法華経法華経の修行の肝心は不軽品(常不軽菩薩品)です」(『崇峻天皇御書・すしゅんてんのうごしょ』)

常不軽菩薩の「私はあなた方を深く敬います・・・」という言葉とお題目は等しいというのが日蓮聖人の教えだ。

だれもが仏になれる。この法華経の教えへの信をもって、あらゆるいのちへの敬いをもって唱えるのが南無妙法蓮華経なのだ。

この信は南無妙法蓮華経を唱えるごとに深まっていくことを、わたしは感じている。

人を敬えば人からも敬われる。これはよく言われることだが、常不軽菩薩の敬いは、生半可なものではない。それは、自分に石を投げつけて迫害するような人に対しても、その人の内に在る仏性を信じて敬う、深い敬いであった。

あらゆる人を敬うというのは、そう簡単にできることではない。わたしが敬うのがいちばん難しいのは妻かもしれない。

「あなた、またケチャップの染みをつけたの。新しい白いワイシャツが台無しじゃない。五歳の孫よりも始末に負えないんだから」と蔑まれたりしているからね。

その妻を合掌して敬うのが南無妙法蓮華経のこころだ。自己の未熟さを自覚して、日々修行に励んでいる。