体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

仏になる・・・関心ありません

法話をすることもわたしの重要な活動の一つである。本日は40~50代の5名の女性の前でお話をさせていただいた。そのうちの4名は初対面であったが、皆さん、温厚で誠実な方たちばかりだった。手製の料理もご馳走になり、世間話も交えて楽しくお話をさせていただいた。

最近、法話をさせていただいていて、つくづくと感じることがある。それは「仏になるということに関心のある人は、ほとんどいないのだなあ」ということだ。仏になる話をすると、耳を傾けてはくださるが、「私もぜひ仏になりたいです」と身を乗り出してくる人は、まずいない。今日もそうだった。

「仏になる」というのは、「あの世に赴く」、「死ぬ」ということではない。「絶対幸福を得る」ということでだ。災害に遭おうと、病気になろうと、信頼する人間から裏切られようと、今この場で、一切の事象に影響されることなく、みずからの内から喜びを涌出させる「私」になるということである。

「絶対幸福を得る」というわたしの話に反論をする人はいない。だが「明日、何が起こるかは分からないけれど、今がおだやかで満たされていれば、それでよいのです」と思っている人がほとんどのようだ。

むしろ、健康、社会、経済面で特に問題なく生活している人より、少数の過酷な状況に置かれている人の方が「仏になる話」を我が事として真剣に聞いてくださる気がする。

法華経』には、家の一階が火事で燃えているのに、二階に居てそのことに気づかず、楽しく遊び続けている子どもたちの話が話が載っている。

これは、無常なるこの世界の中あって、仏の世界に目覚めなさいという御仏(みほとけ)の呼びかけだ。

高校の古典の時間に『徒然草』や『方丈記』を読んで「無常」が知識として頭に入っていたとしても、これをしみじみとわが身に感じている人はほとんどいないようだ。これは生徒に「無常」を教えている先生も同様である。

わたしは今、僧侶として「この世界」と「仏の世界」の両方に軸足を置いて(というか置かざるを得ないで)生きているのだが、多くの人は「この世界」のみに軸足を置き、「この世界」が寄る辺ないものであるということを感じることなく生きているようだ。

この世に生を受けたからには、精一杯この世を生きたいと思う。だが、目に見える世界のみを大切にし、この世の幸せのみを追求していると、いつかそのことを悔いる時が来るであろうことを、わたしは感じている。

この弱小ブログを愛読してくださり、応援してくださる方がいる。その方々は、「この世界」と「仏の世界」の両方に軸足を置かれている方なのだと思う。

そのような方がいらっしゃることに励まされて、わたしはブログを書き続けている。愛読してくださっている方々に、この場を借りて心より感謝申し上げます。

付記

いつもは「ですます調」で文章を綴っているのですが、なぜか今回は気づいたら「である調」で綴っていました。

今回はそれがしっくりくる気がしましたので、手直しをしませんでした。