日ごろお世話になっているお上人が急に体調を崩され、今日、代わりに霊園に法要に赴くこととなった。お上人はわたしに「引導を渡してきて」とおっしゃった。
故人はすでに荼毘に付されていて、遺骨となっていたが、まだ引導を渡されていなかったのだ。引導を渡し、納骨法要を営むのがわたしの役目であった。
引導とは何か。辞書には次のように記載されている。
「葬儀の時、死者の霊が迷わず浄土へ行けるように、導師の僧が唱える言葉(経文)。(『新明解国語辞典』)
「引導を渡す」については、同辞書に「最終的な結論を言い渡して、あきらめさせる意にも用いられる」という記載がある。
「導師」というのは、葬儀のとき、死者に引導を渡す僧のことだ。
わたしは亡き人を浄土へと導くための「引導文」を唱え、読経、唱題をした。
引導を渡すことで、すぐに浄土の住人となれればよいのだが、人はそう簡単に浄土と呼ばれる世界には行けないようだ。
人はみなそれぞれ、偏狭な部分があったり執着があったりする。それが、死ねばすぐに消えてしまうわけではない。
だが、法要時の故人に向けられた遺族の感謝や慰霊の思いや、読経、唱題が光となり力となって、故人のたましいは浄化されていく。
そこに葬儀、法要の意味があるのだ。
葬儀を一切行わない直葬が、昨今、増えている。これには経済的にはメリットがあるが、死者の御霊(みたま)の浄化という観点から言えば、デメリットしかない。
わたしは故人の御霊に語りかけるように引導文を唱え、全身全霊で身の内から涌出(ゆじゅつ)する南無妙法蓮華経を唱えた。
法要を終えた後は、いつも確かな手ごたえを感じる。それは、遺族の感謝と慰霊の思い、そして唱題が故人の御霊に届いたという手ごたえだ。
「葬儀は要らない」と言う知識人がいる。死後もいのちが持続していることを実感しているわたしにとっては、信じ難い言葉だ。
このような知識人には「死後の生命持続について何も感じないあなたは、葬儀について語るのをやめなさい。その資格はない」と引導を渡そうと思う・・・というのは冗談だが。
御霊の供養をさせていただけることは、わたしにとって、なにものにも代えがたい喜びである。
付記
イラストの人物はわたしではありませんが、こんな感じで歩いています。
今回も過去の連載と異なって「である調」で文章を綴りました。なにかこの方がしっくりする気がしましたので、これを続けることにします。
また気が変わって「ですます調」に戻るかもしれませんけれど。