体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

修羅を生きる・その2

わたしは親族の中で変わり者だと言われてきました。父方、母方の祖父、父、おじ達は全員、経済界で生きてきて、教員になったのは、わたし一人。それも教員をする傍ら仏道修行をして僧侶になってしまいました。

妻と結婚する前に、ある百貨店の副店長を務めていた、おじの店に妻と家具を買いにいったことがあります。

おじは店内のレストランで食事を御馳走してくれたのですが、そのとき、わたしたち二人に向かってこう言いました。

「経済的に豊かに生きることはできないだろうけど、まあ、がんばりなさい」

率直に物を言う人でしたが、わたしたちは随分と助けてもらいました(お古の高級ネクタイをおじから何本も貰ったこともあります。ですがこれはどれもド派手で、教員のわたしが学校に身に付けていけるものではありませんでしたが)。

その後、おじは会社にとって経営陣の一人として、なくてはならない人となりました。ですが過労と酒の飲みすぎで60代前半で亡くなりました。亡くなる少し前、わたしは、このおじから「老子ってどういう人だったの」と訊かれたことがあります。

企業戦士として戦ってきたおじが「無為自然」を説いた老子に関心をもっていることに驚きました。

おじは流通業界の熾烈な経済戦争の中で、まさに修羅界を戦い抜いてきた人です。家庭を顧みず、がむしゃらに会社で陣頭指揮をとってきました。ある年、酒を飲んで朝帰りをしたおじから、おばはボーナス袋を「はい」と手渡され、中を見たら何も入っていないことがあったそうです。

おばが「中身は?」と訊いたら、おじはこう言ったそうです。

「銀座のバーで、がんばって働いてくれた部下たちをねぎらってさ、酒をおごって、一晩で全部使っちゃった」

隊長にとって戦場で戦う兵隊たちの士気を高めることは最重要であったのでしょう。

ですが、晩年のおじは、妻をとても大切にして生きていました。「妻にはすまないことをした」と思っていたようです。

晩年の老子への関心、妻への思いやりから、わたしはおじが、経済戦争の中に身を置いてきた人生を振り返って、成功を手中に収めたものの、自己の人生が充実した最良のものであったとは思っていないようだと感じました

この世での成功を思い描いていた大学時代のおじは、『老子』にはまったく無関心であったことでしょう。それが戦いに明け暮れる世界を生きていく中で、競争相手を倒し、ときには自らも傷つき、修羅界の虚しさ、寄る辺なさのようなものを感じるようになったのではないかと思います。

老子の説く道(タオ)は、法華経の世界の妙法と同様のものです。妙法とは、万物を万物たらしめている宇宙根源の法です。

多くの人は、物質の世界を中心にして生きていますので、妙法に関心を持っことはありません。「妙法にすがれば経済的な不安がなくなり、病気も治りますよ」と言えば、妙法に心を傾ける人が増えるでしょうが。このような人を、わたしは仏教的な物質中心主義者と呼んでいます。

修羅の気の強い仏教的な物質中心主義者は、僧侶に、敵とみなす人物を呪詛することを依頼したりもします。言うまでもなく、まっとうな僧侶は、その依頼をお断りしますが。

おじのような物質中心の人生行路を歩んでいる人は多いでしょう。そのような人に仏教者の端くれであるわたしは、どう向き合ったらよいのか。それは個々の状況によって異なりますが、「修羅の世界とは、まことに虚しいものです」と型通りのお説教をしても始まらないということだけは確かでしょう。

みほとけは、すべての衆生が仏になることを願っていますが、一定の人生行路を押し付けることはしません。どのような生き方も否定することはありません。

それぞれのたましいは、他のたましいとぶつかり合い、傷つけ傷つけられながら、物質を超えた真実の世界に目覚めていきます。

僧侶としてのわたしの為すことは、自らの唱題を深めつつ、縁ある人の傍らに立ち、みほとけの慈悲に促されて、縁ある人と向き合うことであると思っています。

おじは、もう少し生きていたら、『法華経』にも関心を持ったかもしれません。