わたしが観察した範囲では、過去を悔んだり未来を心配したりしている犬や猫はいません。
ですがこのわたしはどうでしょう。「きのう妻にあんなことを言わなければよかった」、「エビオスを二回も続けて飲み忘れたのは認知症の兆候ではないか」そんなふうに、いつも後悔や不安の中で生きています。
こんなストレスを抱えていたのでは、我が胃腸君は、「整腸薬を飲む前に、ストレスを抱えないで欲しいな」と言っているに違いありません。
澤木興道という曹洞禅の僧侶がこんなことを言っています。
ちょっと坐ればちょっとの仏。
「仏になるために坐禅をするんじゃない。過去も未来も裁ち切って今ここに坐している、その姿が仏そのものなのだ」そういういうことなのでしょう。
あるお寺の世話役をしている老婦人がお寺を訪れたときの話です。
いつも用事を言いつけている小僧さんの姿が見当たりません。そこで小僧さんの居室のふすまを「入りますよと言って」開けてみたらたら、小僧さんが坐禅をしていました。その姿を見た瞬間、老婦人は思わず小僧さんに向かって合掌し頭を下げてしまったそうです。
老婦人は,悔いも不安もなく、ただ、今に坐している小僧さんに、「ちょっとの仏」の姿を見たのでしょう。
わたしは日蓮宗の僧侶ですので、修行の中心は、座禅ではなく唱題、つまり南無妙法蓮華経を唱えることにあります。
唱題について、わたしはこんな事実を知っています
それは、私の修行の師、斉藤大法上人の唱題の声を、少しの時間、聴いているだけで、心の苦しみから解放されて、癒しと平安を得た方が多くあるという事実です。
癒された方は、過去も未来もなく、今に在って「南無妙法蓮華経」と一つになり切って唱題する大法師の声を聴いて、癒されたのでしょう。
このような唱題ができたらいいなあと、わたしはいつも思っています。
人の苦しみは、頭で過去を悔い、未来に不安を感じ、今を生きられないことに起因しているようです。