体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

無為にして為す

無為にして為す。この老子の言葉が、今、胸に響いています。

わたしは、仏道を歩む傍ら、心身の修養法としての呼吸法にも興味を持ち、さまざまな呼吸法を実践してきました。

息を吸ったら、しばらく止めて、その間、自分にとって理想的な状況をイメージする。息を吐きながらネガティブなエネルギーが出ていくとイメージする・・・。そのように、イメージを思い描くことを伴った呼吸法を行ったことがあります。

私は仏の子である。完全無欠である。心身ともに豊かである・・・。息を吸うとき、止める時、あるいは吐くときに、そのように心中でアファーメーション(ポジティブな言葉で自己宣言すること)することを伴う呼吸法をやってみたこともあります。

その結果、呼吸法を実践するのに、何かをイメージ、アファーメーションすることを、したいと思わなくなりました(決して、イメージやアファーメーションを伴う呼吸法を否定しているわけではありません)。

岡田式呼吸静坐法を創始した岡田虎二郎(1872~1920)はこんな言葉を遺しています。

「あえて求むるなかれ。無為の国に静坐せよ。坐するに、方三尺のところあらば、天地の春はこの内にみなぎり、人生の力と、人生の悦楽とはこの中に生ずる。静坐は真に大安楽の門である。」

「静坐するには何らかの希望を持ってはいかぬ。静坐して悟りを開こうなどと思うのは間違いである。」

わたしは、今も、静かに坐して呼吸法を行うことがありますが、岡田虎二郎と同様の思いで坐して呼吸法を行っています。

わたしの仏道修行の師、斉藤大法上人は次のように言われています。

「自分の思いや願いに凝らされた祈り、特にそれが習慣化された場合、たとえ一時の利益はあったとしても祈りの聖句とは、おおよそかけはなれた結果をもたらす。」

唱題修行においても、わたしは静坐呼吸法と同様に、何も求めず、願わず、ただ全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えています。

「無為にして為す」という時の「無為」。それは、自我の理想、願望といったことについて、はからうことから一切、離れるということであると思います。

理想や願望から離れて唱題する時、自我の意図を超えて、その深奥にある、御仏(みほとけ)のいのちが腹の底から涌出することを感じます。これは、わたしにとって何ものにも代えがたい喜びです。