体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

2022-01-01から1年間の記事一覧

世界平和の祈り

ウクライナの状況を思うと胸が痛む日々が続いています。 今、多くの人々が世界の平和を祈っていることと思います。 「祈ることくらいしかできない」と言う人がありますが、この言葉には、「祈りには効果がある」という確信はありません。はっきりと「祈って…

祈りの奥義 ー目覚めれば浄土ー

日蓮聖人の主著『観心本尊鈔』で、日蓮聖人は『法華経』の教えを踏まえて、次のように記されています。簡単には信じられない文です。 私たちの住むこの世界は、火災・水災・風災に脅かされることもなく、成立し、変化し、破壊され、無に帰するという宇宙の循…

無願の唱題

この世の苦しみは、貧・病・争、すなわち、貧しさ・病気(怪我も含める)・人との争い(対人関係)の三つの範囲に収まると言われます。戦後、多くのお題目系の新宗教は、「南無妙法蓮華経と唱えれば、貧・病・争から解放されて救われる」と説き、急激な発展…

南無妙法蓮華経それ自体の中に入り込む

斉藤大法上人の指導の下で変化したわたしの唱題。それは大法師の言葉を借りれば、自我-発電的唱題から宇宙-発電的唱題へのコペルニクス的転換であったと前回記しました。 これはどういうことなのか。わたしなりに表現すれば、わたしの意志で唱えていた唱題が…

南無妙法蓮華経を唱える その2

お釈迦さまの修行の内容とその結果得られた大いなる悟り。それを、ただ南無妙法蓮華経を全身全霊で唱え続けるなら、お釈迦様は、自然とお譲りになられる。 日蓮聖人はそう明言されています。参考までにその原文を掲載しておきます。 釈尊の因行果徳(いんぎ…

南無妙法蓮華経を唱える その1

『法華経』を理解せずして南無妙法蓮華経を唱えても意味はない。「南無妙法蓮華経」というのは「法華経に南無します」という意味なのだから。「南無」とは「いのちを託します」ということ。理解できてもいないものにいのちを託すことは愚かである。 『法華経…

南無妙法蓮華経とは何か

南無妙法蓮華経とは何か。このタイトルで法話をすることとなり、その準備をしています。それでブログを三日間更新することができませんでした。 このようなタイトルでお話をするのは、「身の程をわきまえていない行為である」という自覚はあります。ですが、…

こころの表面と本当のこと

桜井章一さんをご存じでしょうか。麻雀の裏プロという真剣勝負の世界で二十年間無敗の記録を作った伝説の勝負師です。 ある日、桜井氏が街中を歩いていると、明らかにやくざ者と思われる若者の肩に自分の肩が触れました。 「オイ、おっさん、何処見て歩いて…

願望実現と仏道

昔、あるところに「大麦小麦二升五合(おおむぎこむぎにしょうごんごう)という、おまじないの言葉を唱えて、エイヤッと気合をいれて病人を治している拝み屋のお婆さんがいました。霊験あらたかだということで、遠方からも病人が訪れていました。 ある時、お…

頑張ってはいけない

一生懸命に頑張ってはいけない。これは、唱題(「南無妙法蓮華経」を唱える修行)をする自らへの戒めです。 かつて高校の教員であった時、生徒に「頑張ってはいけない。努力してはいけない」と言ったことは一度もありません。わたしは、教え子にいつもこう言…

天才

伊東明瑞(いとう めいずい)という書家がいます。明治22年に和歌山県に生まれ、2歳で漢学者、南海鉄山に師事。幼くして、古典を暗記し、驚くべき書の才能を発揮しました。5歳の時には明治天皇の前で書の腕前を披露し、天皇を驚嘆させています。 山口県の…

定年は臨終時 

葬儀会館で、葬儀の法要を営んできました。 わたしは、お導師(中心となる僧)の脇で、読経、唱題をしましたが、椅子に座ろうとした時のことです。 読経の際にゴーンと打ち鳴らす鏧子(けいす)の棒に衣の袖が触れて、棒が床に落ちて、転がって行ってしまい…

祈りの秘訣

わたしは、周囲の方が、僧侶としてのわたしに依存しないように気を付けています。また、神仏にも依存しないようにと伝えています。 と言っても、真に辛いとき、苦しいとには、誰にでも神仏に助けを求めたいと思うことはあるでしょう。わたしは、それを「心が…

宗教と依存

昔のことですが、浄土真宗の御門主が地方を教化に巡った際、御門主が入った後の風呂の湯を、村人が有り難く頂戴して飲んだという話があります。 これは現代の話ですが、ある仏教系新宗教教団の本部のトイレには、教祖様専用の金ピカのスリッパが置かれてある…

転生について思うこと

「このごろ読書の時間が取れていないなあ」と思って、今日、仏教書を開いたら、こんな言葉に出会いました。 「輪廻とか、カルマとか、近代化の文脈の中ではすでに過去に属するものとして否定されなくてはならないもの」 積極的に禅の指導をされている、道元…

わたしの過去世

わたしは心霊研究をしてきましたが、その過程で、何人かの霊能者から、わたしの過去世を伝えられたことがあります。ちなみに前世というのは今回の人生の直前の生涯、過去世は、それ以前の複数回の生涯を言います わたしは、過去世があるということを認めてい…

たましいの私塾 その2

無差別に人々にに危害を加えて、自身も死を望むような事件が相次いでいます。他者との比較の中で、自分は価値のない存在だと考え、絶望する人が増えていることが大きな要因である気がします。 かつて、高校一年生のある教え子は、わたしにこう言いました。 …

たましいの私塾 その1

私塾を開いています。 というと、わたしはは高校の教員であったので「学習塾を開いているのかな」と思う人もいるでしょう。ですがそうではありません。仏教塾です。 塾の名は、香風塾。「香風」は法華経中にある言葉です。浮世の塵(ちり)を仏法の風で払い…

龍神さんだったのかもしれない その2

スピリチュアルな世界では、龍神さんがブームになっています。龍神さんはお金や運気をもたらしてくれる。そう思って龍神さんを信仰している人は多いようです。 わたしも龍神さんが好きですが、現世利益を得るために龍神さんを拝むことはしません。財を運んで…

龍神さんだったのかもしれない その1

昨日は、世界各地の日蓮宗僧侶がお題目の祈りをインターネット上でつなぐ「24時間お題目リレー」の日でした。わたしは、斉藤大法上人との対談、唱題(南無妙法蓮華経を唱える修行)をさせていただきました。この時に起こったことを記します。 ふつう唱題時の…

仏道と教育 ー わたしは非教育的な教員でした ー

今、三十歳を越えているリョウタ(仮名)は、わたしの教え子で、数学が大の苦手でした。彼が数学の定期考査で赤点を取るのはいつものこと。リョウタは補講を受けて何とか二年生に進級しました。 二年生になったばかりのある日、リョウタが真面目な顔で、わた…

「宗教」ではなく「道」を生きる

受験のシーズンとなりました。教え子の息子、ショウゴ(仮名)が、かつて、わたしが勤務していた高校を推薦入試で受験することになり、指導を依頼されました。 推薦入試には、個人面接があります。面接試験のポイントは、受する高校が求める生徒像を的確に理…

小さな弟子と身延に参拝しました その2

身延山での二日目は、昨日とは打って変わって快晴でした。朝五時半に宿坊を出て、六時から始まる久遠寺の朝勤(ちょうごん)に向かいました。都心に住んでいるガクトは、星がきれいに見えることに感動していました。 広い久遠寺の本堂には一切、火の気があり…

小さな弟子と身延山に参拝しました その1

1月11日から12日にかけて、一泊二日で身延山に参詣してきました。中学一年生の男の子、ガクト(仮名)も一緒です。11日から中学校は始まりますが、彼は、両親の承諾を得て、わたしにくっついてきました。 ガクトは、わたしの教え子の息子です。ですが身延で…

供養についての誤解

コロナ禍の中で、葬儀のかたちは大きく変化しています。お通夜をしない一日葬が増加しています。 直送も今後さらに増えていくことでしょう。直送は「じきそう」もしくは「ちょくそう」と読みますが、病院で亡くなつた人の遺体を直ぐに火葬場に運び、荼毘(だ…

仏教についての大いなる勘違い

仏教寺院で、人々は経済的に豊かになることを願って手を合わせています。「自分さえよければよい」という思いでなければ、物質的に豊かであることは肯定されてよいでしょう。 ですが、仏教の開祖、釈尊が、この世の豊かさを捨てることから修行をスタートさせ…

草や木、生き物の供養がしたい

正月、長男一家が住む家に行きました。昨年から居住し始めた家で、初めての訪問でした。庭の崖下は谷間で川が流れており、その向こうは鬱蒼とした森です。庭には何本かケヤキなどがそびえ立っています。 長男は、都心部の大学に勤務していますが、毎日出勤す…

神への祈りと仏への祈りは、本当は違います

先日、池上本門寺の大堂で柏手を打って参拝している若者を見かけました。神社とお寺の違いがよく分かっていない人がいるようです。ですが、この区別は、実際難しいことがあります。。 「鳥居があるのが神社で、ないのがお寺」と言う人がいますが、一概にそう…

初詣と祈り

多くの人々が、明治神宮、成田山新勝寺といった大きな社寺に初詣に出かけます。 初詣は本来、居住する地域の氏神様に参拝するのが習わしですが、近代、鉄道会社が大きな社寺へと人々を誘導しはじめました。京浜急行電鉄の大師線はその一例で、川崎大師平間寺…

めんどうくさがり屋でなくなるには

元旦、妻から「今年の抱負は何?」と訊かれました。 わたしは「頑張らないこと」と答え、狐狸庵山人(遠藤周作先生)の句を口ずさみました。 何事もする気はなくて寝正月 実際、本日、元日の午後、雑煮に餅を三つ入れて食べたら満腹になって眠気を催し、惰眠…